私の友人から、こんなメールが私のところに届きました。
県で放射能汚染されている瓦礫の受け入れを検討しているという話は本当か?
本当だとすれば、住民にも知らされず進んでいくことが大変怖い。
被災地を助けていかなくてはいけないのはわかるが、汚染を広げてこれから生きていく子供たちの安全な環境まで奪ってまでするべき方法ではないのではないか。
といった趣旨の内容です。
このことは、友人だけではなく多くの県民の皆さまも同様の気持ちをお持ちだと思います。
現時点で私が知り得ることを時系列でここに書きます。
明日以降、入手した情報についても書きますし、逆に県民の皆さまからも何かお持ちの情報などがあればお知らせいただければ幸いです。
まず、4月に、環境省から全国の都道府県に対し、被災地のがれき処理の受け入れについて打診がありました。
この時点では、多くの自治体が「受け入れ可能」と回答し、秋田県でも6市と5事務組合が受け入れ可能と回答しました。
6月3日、公務復帰後、初めての記者会見では佐竹知事が「がれきを受け入れると回答したのに、それ以来、国からは何の音沙汰もない。政府は全く対策の呈をなしていない。」と苦言を述べられました。
その後、6月中に、秋田県と県産業廃棄物処理協会が「県災害廃棄物処理支援協議会」を設置し、がれき受け入れの体制づくりが進められました。
しかし、この後、全国的に、稲わらをはじめとする様々な放射能汚染の問題が発生し、このがれき受け入れは全国的にストップしました。正確にいえば、実際に被災地のがれきを受け入れた自治体は現時点でもないはずです。
もちろん、福島県のがれきは、県外への搬出は不可となっていることから、今、対象となっているのは、岩手や宮城といった地域のがれき、ということになります。
それでも、「放射能汚染の可能性」は否定できないということです。
前にこのブログに書きましたが、「福島」というだけで、十分な確認もせずに、「汚染を持ち込むな」といった反対運動が起きていることには私自身、懸念を覚えますし、科学というより、感覚や感情が先に立った行動や運動が起きている部分も否定できません。
しかし、こうした行動や運動が起きてしまうのは、結局、「科学」というもの、数値というもの自体の信頼性や客観性が失われ、「放射能」という見えないものに対する無限大の恐怖心が一向に「科学」によって解消されないことが原因です。
こうした人間が制御できない「原発」や「放射能」というものに対する科学的な安全性というものが揺らいでしまっている現時点において、そうした感覚的、感情的とも思える言動があったとしてもそれを否定できる何ものも私たちは持ち合わせていないのだとも思います。
私自身は、この「科学的な安全性」というものを確立できるとは思えないので、脱原発を進めるべき、というスタンスでいます。
少し話がそれました。
がれき処理については、こうした社会情勢、国民感情の中で、受け入れが止まっているのが現実であり、それはある意味で当然のことだと私は思っています。
9月5日の記者会見で、佐竹知事は、「がれきについては、早い時期に国にどのぐらい受入れられるのか、(受入れられる)市町村の数や、その処理施設について回答していますが、放射能に汚染されたがれきの想定はしておりません。今の時点においても、放射能に汚染されたがれき等の受入れについては否定的であります。ただ、きちっとした国の措置をもって、不公平でなく、全国47都道府県すべて一定のルールで、かつ国が万が一のときにあらゆる面について補償する、科学技術的にも大丈夫だという統一的な方針、方向性が示されれば、頭から拒否するものではない。その際に、人口が少ないから、山が多いからという勝手な理屈ではなく、日本国民が等しく若干のリスクがあっても受入れる覚悟をする状況をつくらないことには、単独県でこれを「うん」と言うわけにはいかないということであります。」
とおっしゃいました。
至極、当然のスタンスだと私も思いました。
しかし、9月21日の福祉環境委員会において、「岩手県からのがれきを受け入れ検討」ということが県側から説明されたようです。
私自身は、商工労働委員会のため、この方針転換とも思える説明の経緯については、委員会の場で直接確認できていません。
たった2週間で、何が起きたのか、佐竹知事の発言と今回の受け入れ方針の違いはなんなのか、その点については、早急に確認させていただきたいと思います。
話はまた少し変わってしまいますが、今、つくづく感じるのは、「感情」の難しさです。
福島の農家の方が「俺たちはただ自分の家に帰って、また農業をやりたいだけなんだ。何も悪いことはしていないのに。」と言います。
被災地以外の方々が「汚染物質は一切持ち込んでほしくない。」と言います。
どちらの感情も解りますが、どちらも成り立つ「解」は果たしてあるのか。
原発立地で多額の交付金が福島に流れてきたことは事実で、そのことを度外視して「ただ農業をやりたいだけの被害者だ」という論が完全に通用するのか。
原発が被災地や首都圏のためだけのもので、秋田は原発とは全く関係のない、完全なる第三者だと言えるのか。
汚染地域で農業を続けさせないとすれば、そのための生活補償が必要でしょうし、日本国民全体で放射能のリスクを共有、分散させるとすれば、基準や体制など「科学の信頼」を取り戻す必要があるでしょう。
こうしたことは「いばらの道」ですが、こうしたことをやらない限り、不安や感情だけが先走り、不幸な地域間の対立までが起きることになるのではないか、と懸念しています。
日本国民の知恵と決断が必要な時かもしれません。何を捨て、何を受け入れるか。