仕事で青森を訪れた。
仕事の中身についてはまた機会を改めて著わすとして、今日は仕事以外のことを少し書きたい。
夜、友人らと再会した。
平成20年度、1年限りであったが、私は「派遣職員」として、秋田県庁から青森県庁に派遣された。
東日本大震災が発生したことによって、現在、中断しているが、秋田・岩手・青森の3県は、職員を相互に派遣し合う、という交流人事を行ってきた。
環境保全、観光などは論を待たず、都道府県の行政区域を超えて対応すべき事案は多い。
道州制や広域連合、広域連携など言い表し方や形態は様々だが、要はこうした広域対応すべきものに迅速かつ的確に対応しようという意味であるし、そうしたものを見据えた交流人事を3県は積み重ねてきた。
よく、地方はどこに行っても「金太郎飴」と揶揄されるように、似たような街、似たような風景、似たような政策がままあるわけだが、実は、「役所の内部」はそれほど似ていない。
観光、土木、福祉、人事、予算・・・基本的にやるべきことは、青森県庁だろうが秋田県庁だろうが同じなのだが、「やり方」や「意志決定の手法」などがそれぞれ違う。
当然、秋田県庁スタイルに慣れていた私は、青森県庁のスタイルに全く慣れず、馴染めず、当惑するばかりだった。
まして、知り合いなど一人もいないわけで、知らない組織で知らない仕事を知らない地域のためにやっていくということの難儀さを、1年であったがつくづくと痛感したものだった。
そういう時間の中で、毎晩のように一杯飲みながら私の愚痴に付き合ってくれた当時の同僚と、逆に私が秋田県庁在職時に岩手県から派遣職員として受け入れて同職した男との久々の再会であった。
一人の男とは、青森を去るときに「いつか、それぞれ県庁を背負うぐらい大きくなって、また一緒に仕事をしような」と約束したのだが、私のほうがその約束を破ってドロップアウトしてしまった。
もう一人の男には、彼が秋田を去るときに、「これを持っていけ。被災した故郷のために頑張れ」と、自分が震災後、ボランティアとして炊き出しに行ったときに着ていたスタジアムジャンパーを渡したが、その彼も伴侶を得て幸せな家庭を今築いた。
今、3県交流は前述のような事情によって中断している。
自分が育ってきた組織を出て、別の組織、別の地域で働くという経験は、ハードなものだが得難い糧となると私は思っている。
また再開することを心から期待している。
その一方で。
盛岡市から陸前高田市に「復興支援」のために派遣されていた市職員が自殺したとの報道が最近あった。
同じ岩手県内でさえも、別の組織で、「復興」という大きな使命を背負って働くことの困難さがそこにあったのか、「希望して被災地に行ったが役に立てず申し訳ない」との遺書からその心中の全てを読み取ることはできない。
しかし、御家族の方はもちろん、送り出した盛岡市の上司、同僚、友人ら、受け入れた陸前高田市の職員の方々の気持ちを想うと、ただただ心が痛い。
秋田県庁から、福島県に派遣されている職員の方々がいる。
困難な仕事に困難な環境の中で従事しているが、プロの行政マンとしての誇りや責任感があるからこそ続けられる、そのマインドに心から敬意を表したい。
今週、仕事で福島を訪れる予定にしている。
昔、一緒に仕事をした仲間も今、福島で仕事をしている。顔を見て、少しだけ語り合ってこようと思う。
しっかり仕事をして、元気に秋田に帰ってきてもらいたいし、被災地から学び取ったものを県政にとことん活かしてもらいたい。
秋田県としても、被災地を支援する、というだけではなく、被災地から学び取る、ということも、そうした派遣職員の知見、経験を通じて戦略的にやっていかなくてはならないだろう。