民主党代表選が始まった。
どなたが代表になるにせよ、これから10年、巨大な自民党と政策的にも選挙的にも戦いあえる政党をどう創り上げるか、その羅針盤を示せる方になっていただきたいと思っている。
その点では、野党再編か自主再建か、というところが注目されているが、私自身としては、このどちらの言葉も中身が曖昧で、実はあまり差異がないのではないかと思っている。
たとえば、自主再建を目指す、としてもわずか1年半後には参議院選挙がある。今回の衆院選では野党間で駆け込み調整が行われたが、それの効果は乏しかったし、次の参議院では全県一区の選挙区になるところも多く、比例復活ということもないわけだから、今回の衆院選以上に調整は難航するだろう。つまり、実質的には再編に近いぐらいの政策的なすり合わせや選挙区調整ができなければ、非自民候補が2人出た時点で自民候補が自動的に勝利するという結果になることは目に見えている。
また、野党再編を目指す、としても「非自民」という旗のもとに集まることはできず、政策的な一致が不可欠であるし、では何が再編の柱になるのか、という議論はこの2年まったく深まってこなかったし、民主党が割れてどこかとくっついたとしても、政党の質としても議員の数としても、むしろ悪くなるのではないかという懸念さえある。
こうして考えていけば、私としてはいずれどこかの時点での野党再編は避けられないことだし、むしろそこは前向きに捉えていくべきだと思うが、血を流す覚悟で相当な時間と労力をもって臨む必要があるだろうと思う。
であるならば、今回の代表選の争点はただ1つ。まずは民主党が民主党として何を為すのか、何を変えるのか、何を目指すのか、その立ち位置を明確に、具体的に国民に向けて語ることだ。
「いまさら民主党には期待などしない」という声に目をそむけることなく向き合うことだ。
そのことを考えたとき、私としては民主党が目指すべきことは、本来の「改革政党」としての立ち位置を明確にすることだ。既得権益を打破し、変えるべきを大胆に変える、ギアチェンジをしていく、そういう政策力や行動力を取り戻すことだ。民主党は政権交代を果たした瞬間から、その改革政党としての志が見えなくなってしまった。
そのことを「過去との訣別」という言葉で語るか、「原点回帰」という言葉で語るかは問題ではない。単なる「暮らしと雇用を守る」だけの政党ならば民主党の存在価値は減耗していく一方だろう。その危機感を誰が一番強く抱いているか、そしてそこにどうロードマップを示せるか、そういう候補者に私自身の一票を投じようと思っている。
2015年となった。
私が県庁を退職して、政治活動を始めたのが2011年の1月からであったので、政治の道に足を踏み入れてから丸4年が経ったことになる。
県議会議員としての任期はもう4カ月あるが、この4年は自分にとって本当にあっという間の月日だったし、もがき、悩み、苦闘格闘をし続けた時間でもあった。
そしてその時間の中では、議員として、あるいは政党人として、言いたくないことを言わねばならないときや、果たさなくてはならない役割と自分の内心との間で揺れたときなども、幾度もあった。逆に、自分の主張や訴えが思うように運ばず、我慢をするということもしばしばだった。
政治とはそういうものだということもおぼろげながら見えてきた4年だった。
一方で、知らず知らずのうちに、役割や義務、それに伴う我慢といった「垢」のようなものが自分の身体に張り付いてしまっているのかもしれない、とも感じてきた。
これまで私自身、「誰かの選挙」に幾度も関わってきたが、90日後には誰でもなく自分自身が審判を受けることになる。
自分が何のために政治の道に入ったのか、何をやろうとしてきたのか、そして何ができなかったのか、そのことをストレートにもう一度有権者の皆さまに訴えていきたいと思う。
民主党県連の幹事長という立場や、県議会民主党会派の代表といった肩書をいったん忘れて、1人の政治家、1人の地方議員として、4年間、心の中に置き続けた想いをストレートに言葉にしていこうと思う。
「なれあい議会を変える」「議会が変われば県政が変わる、秋田が変わる。」
変えなくてはならぬ、という想いは今も変わらない。
変えなくてはならぬ、という現実が未だあることも事実だ。
議会の変革と、県政の変革を掲げて、もう一度戦い抜きたいと思っている。
一言で言えば、「県議会の存在意義」そのものが問われる12月議会だったと感じている。
衆院選と同時並行で開会していた12月議会、本会議や委員会を欠席などして選挙応援に走った自民党議員は延べ14人に上った。
我々県議会議員が誰から給料をもらっているか。それは、県民の皆さまから「県政発展のための議会活動」をしっかりやれ、という付託を受け、その対価として給料を得ているということであり、国政選挙のために本会議を休むというならば、その給料を受け取ってはならないということになる。そういう方々は、国会議員から選挙活動の対価として給料をいただけばよろしいのではないか。こういうことが、県議会というものの必要性や存在価値を自ら否定している行為に他ならない恥ずべき行為であることを、自民党議員の方々には深く自覚してもらいたい。
さらに、こうしたことが起きる中で、今議会には、知事と県議会議員のボーナスをアップするという条例が提案され、これについても県議会において単独過半数を占める自民党議員らが全員賛成に廻ったことで、いとも簡単にボーナスがアップしてしまった。
私は「今、我々政治家が為すべきことは、自らの所得を上げることではなく、与野党を超えて、国政県政の枠を超えて、県民の所得を上げることであり、そのために将来世代からの借金で補っている貴重な財源を最大限、効率的・効果的に政策予算に振り向けていくこと」と討論し反対したが、知事・議員のボーナスアップに反対したのは、私を含む民主党議員のみだった。
結局、議会をさぼっても、選挙応援に走っても、ボーナスを上げてもよい、上げても許されると思えるのは、「何をやっても選挙に勝てる」という自民党のおごりそのものではないのか。
その根底にあるおごりを正すことができるのは、有権者だけであり、選挙の洗礼によってだけである。
こうした「お手盛り」議会に対して、有権者の皆さまが厳しい審判を下していただけることを心から期待をしたい。
国民・県民ののため、景気回復のため、所得向上のため、と言って、多数を握り、その結果やっていることが自分の所得向上なら、有権者の皆さまの「一票」の何と虚しいことか。