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終戦記念日

2011年08月15日

 私の母は昭和22年生まれだ。
 終戦から2年後、「第一次ベビーブーム」として生まれ、日本の66年間の戦後は、ほぼ、私の母の人生の時間と重なる。
 第一次ベビーブーム世代は、その後、「団塊の世代」と言われ、数年前には、日本社会から「大量退職」し、これから、大量の「後期高齢者」となる。

 私は、この世代から生まれた「第二次ベビーブーム」の世代と言われている。
 私の生まれた昭和48年はオイルショックのあった年であり、その2年後には朝鮮戦争が始まり、結果、朝鮮半島では民間人も含め数百万人の戦死者を出し、日本も国連軍の作戦に参加して戦死者が出るなど、戦争は「すぐそこにあるもの」だった。
 もちろん、乳幼児だった私に、「戦争体験」として何かが記憶に残っているわけではない。

 昭和17年から「海軍特別年少兵」が戦場に送り出された。年少兵は14歳。
 終戦までの間、約1万7千人が出陣し、そのうち5千人は命を散らせたとも聞く。
 年少兵であった方が、今、ご存命でも、既に80歳となる。
 つまり、少なくとも公式記録としては、戦場を経験された方のうち、最年少であっても最早80歳を迎えているということだ。

 毎年、この時期になると、「風化させない」とか「語り継ぐ」と言って、テレビ各局でもドラマやドキュメンタリーなどが放送されるが、365日のうちのたったこの1日以外、民放各局で戦争特番などをやったというような記憶を私は持たない。日本にとって、「戦争」は次第に「物語化」しつつあるのかもしれない。
 とは言え、長く徴兵制度を続けてきたドイツやスウェーデンなどの国でも、近年、徴兵制を廃止したところを見れば、これは日本に限らず、世界的な流れとも言えるかもしれない。

 しかし、物語化されたこうした「戦争からの解放」が、「平和」を意味していないことは残念ながら明らかである。
 外務省のホームページを見れば、今なお、世界にはおびただしい「紛争地域」があり、世界最大の紛争地域と言われるアフリカのコンゴでは、1990年代からの内戦で既に500万人以上の戦死者(大半が民間人の餓死・病死)が発生していると言われている。
 太平洋戦争での日本の戦死者は民間を含めても310万人であるから、それを大きく超えている。
 しかも、これは直接・間接的に他国が軍事投入をしたり、武器等の輸出支援をしていたりするから、果たして、内戦と言えるものなのかどうかすら疑わしい。
 思えば、「9.11」のテロが起きたあのとき、当時のブッシュ大統領は「21世紀最初の戦争」と言って、アフガニスタンに侵攻した。
 最近、ロンドンでも、中国でも暴動やデモが立て続けに起きた。
 戦争、紛争、暴動、テロ・・・・・こうした言葉の境界はほとんどなくなっているし、単に戦争という言葉が、紛争やテロといった言葉に置き換わっているに過ぎない。

 依然として、世界は物騒であり、むしろ、ますます複雑になってきている。

 誤解を恐れずに言えば、世界は、そして日本は、目下、やはり「戦時中」なのだと私は思っている。
 砲弾が飛び交う戦争から、情報やお金が飛び交う戦争に道具が変わっただけだ。
 そういう時代を私たちは生きている。
 たとえば、失業率が高い、働く場所をよこせ、といってデモが起きる、警察との衝突が起きる。あるいは、働く場所がない人間が途方に暮れて自殺する。これは一見、国内問題のように見えて、グローバル経済下での国際問題とも繋がっている場合も多い。
 これからは、食糧やエネルギーを巡る、経済的・国際的な戦争・紛争・衝突が多くなり、その結果が国内経済や国内情勢に大きな影響を及ぼすということになるだろう。

 少々、年寄じみた言い方になるが、こういう時代の中に生まれ、社会に出ていく「年少兵」たちが持つべき「武器」はなんだろうか。
 安倍内閣時代、教育基本法が改正され、「愛国心」を育むことが盛り込まれた。そして、この夏、その改正教育基本法に基づいた中学校の教科書採択が行われる。
 自民党からは、全国の地方組織に対し、「適切な教科書採択を求める議会活動」を行うよう通達が出され、我が秋田県議会でも、6月議会において自民党会派からの提案により、「教育基本法と学習指導要領の目標を達成するために最も適した教科書の採択を求める決議」が賛成多数で採択された。(私を含む14人の議員は反対。)

 私は愛国心を否定しないが、愛国心や歴史教育では、現代の戦争は生き延びられない。
 現代の戦争を生き延びるためには、政治、経済、金融、世界情勢・・・こうした「今」を生き延びる実学・実践的な教育こそに時間を割くべきだと私は思う。

 終戦から66年。
 見えない戦争はむしろ激しさを増している。
 

 

円高

2011年08月14日

 今日は自戒も含めて少し情緒的な話をさせていただきたい。

 震災直後の3月17日に戦後最高値となった1ドル=76円台前半に迫るような状況が続いている。
 3月には、日米欧の協調介入によって、80円台まで水準を戻したが、この時には、様々な憶測が交差する中での一時的な「震災ショック」だったため、市場介入の効果もあった。
 しかし、今回の円高傾向は、そもそもドルの信用力の低下、「ドルの没落」に原因があるぶん、日本政府が少々市場介入したところで、焼け石に水、効果は望めず、1ドル=70円を突破するのもそう遠くはないという予測も市場には流れている。

 トヨタは、先に、「1ドル=80円は、日本でモノづくりをしていく限界を超えている」と言ったが、そのトヨタがかろうじて、国内生産比率5割を保っている以外、日産やホンダなどは既に国内生産比率は3割を切っている。
つまり、大手企業の「海外への引っ越し」はとっくに進んでいる。

 秋田県にとっても、リーディング産業である電子部品業界は、円高の影響を受けやすく、代表企業であるTDKは、1円円高になれば、売上高は55億円減少すると説明しており、この「円高」は秋田にとっても大変重要な問題となっている。
 しかし、この円高対策は、地方自治体としては中々手を出しようがない。「市場への介入」などできるわけもなく、地場の企業に必要な資金を流し込むというぐらいの、「守備的政策」しか打つ手がないというのが正直なところだ。

 震災による直接・間接被害への支援として、県が銀行等を経由して県内企業に融資した額は、この8月に入って500億を超えようとしている。
 間もなく、震災から半年を経過することもあり、「震災被害に対する緊急融資」という目的でスタートしたこの融資枠は、8月いっぱいで終了する見込みだ。
 借りたお金は返さねばならない。そこにこの円高だ。円高に効く特効薬は地方自治体はおろか、政府・日銀にすらない。

 このお盆、帰省してきた友人らをはじめ、いろいろな方々とお話させていただいた。
 どこに行っても、誰と話しても「秋田に働く場を」と言われる。
 特に、高齢者の方などが「子供も孫もみんな県外で暮らしてるし、あと戻ってこね。お盆も帰ってこねな」と苦笑いしながら話されたり、「孫が秋田に戻ってこれるような働く場所があれば」と訴えられると、本当に心が痛む。
 議会改革も大事だ、情報公開も情報発信も大事だ、しかし、この「雇用確保と産業振興」ということについて、正直に、自分はまだ何事も為し得ていない。

 企業は、日本がダメなら海外に行ける。法人税が高い、電力が高いから、といって海外に移れる。
 しかし、国民はそういうわけにはいかない。
 消費税が上がるから、住民税が高いから、といって海外に移住できる人は少ない。
 大部分の日本人は、放射能の雨が降ろうが、税金が上がろうが、電力料金が上がろうが、給料が下がろうが、「ここ」で暮らしていくしかない。
 この秋田に暮らす人たちもそうだ。誰でもいいから、どの政党でもいいから、どういう手段でもいいから、「暮らしを良くしてくれ」という悲痛な声が秋田に満ちている。

 国も自治体も、総理大臣も首長も、国会議員も地方議員も、国家公務員も地方公務員も、この厳しい時代の痛切な国民の声に、最大限の焦燥感と行動力で応えていかなければいけない。
 やれることはないのか、やれることは全てやったのか。ただの「シゴト」と割り切ってはいないか。

 原発対応で事実上更迭された経産省の事務次官などの退職金が、「自己都合」ではなく、「組織からの勧奨退職」によるものとして、上乗せ支給され、7000万前後になるそうだ。
 情緒的な物言いはあまり好きではないが、「参る」墓さえ流され、跡形もなくなった被災地の方々の前で、7000万の退職金を積み上げて、堂々と受け取れるものなら受け取ってもらいたい、と誰しも思うのではないか。
 私も、フンドシを締めて、仕事をしなければ。

再就職。

2011年08月11日

 なんとも情けない話だ。

 夢や情熱、気概を持って仕事に打ち込んでいる若者がたくさんいる。
 理想と現実の狭間で、苦しみながら毎日深夜まで仕事をしている仲間がいる。
 秋田を良くしたい、次の世代にしっかりとバトンを渡したい、みんなに安心して老後を過ごしてもらいたい、若者が秋田で働き、暮らせるようにしたい・・・・

 そうした理想や想いとは裏腹に、目の前の現実を見たときに、無力感や絶望感に苛まれることもある。

 外を見れば、少子化という抗いがたい波、産業振興という困難な命題、過疎や限界集落、若者の県外流出といった状況。このままでは秋田が無くなってしまうのではないかという不安。
 中を見れば、年功序列という分厚い壁、財政難や定数減といったヒト・モノ・カネの減少、次々と降ってくる、時に「思いつき」のような指示への対応、組織内部の論理が優先されていくことへの疑問、業務量のアンバランスやマネジメント力の不足・・・・もちろん、「常にそうだ」ということではないが。

 秋田に課題は山ほどある。
 そして、それに立ち向かうための武器や体制、人的資源が十分とはとても言えない。
 しかし、それでも、そういう中でも、情熱と想いを持って、抱え込んで仕事をしている職員が確かにいて、彼らは日々、戦っている。
 それが、私が16年在籍した、秋田県庁という組織だ。彼らを私は今も尊敬している。
 県民の皆様からすれば、至らぬ点ばかりの「行政」や「役所」であるかもしれないが、必死にやっている人間がいることも、願わくばご理解いただきたいとも思う。

 話が廻りくどくなってしまった。

 幹部職員の再就職。
 このことについて、冒頭、なんとも情けない、と言った。
 昨年度末に退職した建設交通部長が、「職務上密接な関係にあった企業への再就職は自粛する」という内部規定に違反し、建設会社に再就職した。
 県の部長と言えば、単純に言えば「県政のトップ10」に入る実力、決定権を持ち、その下には100人や200人の部下がいる。秋田の民間会社の社長さんでも、それほど部下を持っている社長さんはそれほど多くないのではないか。
 部長の下には、日々、それぞれの部局が抱える重要課題が持ち込まれ、最後は「部長の一言」で物事が決まっていくことが多い。
 私自身そうだったが、若い職員にとっては、部長室に入るだけでも緊張する、というようなものだ。
 同時に、自分もいつかこの人のようになって、自分の意思で県政を動かしていきたい、と思ったりもする。
 まさに、下の人間にとっては、「基準」であり、「規律」であり、「権威」であり、「目標」である。

 県議会議員は秋田県に45人「も」いるが、県の部長クラスは10数人しかいない。
 県議会議員は自分の裁量で動かせるお金は年間300万円の政務調査費だけだが、部長は年に何十億、何百億という予算を直接的に決定し、動かしている。

 そういうポストにあった人間が、自ら県の内規を無視し、自分の後輩と言える現職幹部から「非常に残念だ」などとコメントされることは、私としては、「残念」を超えて「情けない」の一言に尽きる。いや、「憤り」か。
 踏ん張って、戦って、必死にやっている部下や後輩らに、どう顔向けするのか。
 再就職したポストはかなりの高給とも聞く。
 7月1日の公表を意識し、8月1日からの再就職という、「公表逃れ」とも言われかねない手法を採ったとも聞く。
 「部長だったときはなんだかんだイイこと言っても、結局、自分の保身、自分のことしか考えてなかったんだな。本当にガッカリだ。こういう恥ずかしいことはもうやめてもらいたい。」
 そんな声を県庁内部の若手職員からも聞く。

 自分の理屈で、自分が何をやるのも勝手と言えば勝手なわけだが、せめて、これから先も現場で踏ん張り続けていく職員の情熱に水をかけるような、後ろ足で砂をかけるようなマネだけはしないでもらいたい、と私は思う。
 自分が指示を受け、自分が信頼してついてきた人が、自ら県の内規を破り、その結果、県庁全体が県民から責められ、信頼を損なうことになる、というのでは、ある意味、職員は「裏切られた」という思いを抱いてしまうのではないか。
 県の最高幹部が退職し、県庁や後輩らに遺していくものが、「県民からの不信」や「上司への不信」といったものだとすれば、それほど遺された側にとって迷惑なものはない。

 現在の内規そのものに無理や矛盾があるのか。だとすれば、職員のモティベーションを下げないためにも、そして、県民の皆さまの信頼をこれ以上損なわないためにも、「できない約束」はしないほうがよい。
 県が再就職を斡旋するということについても、県民の皆さまからは「公務員だけ、ハローワークとは違う仕組みが用意されているのはおかしい」というご意見があることもまた事実。
 私は現時点で再就職そのものを全否定するものではないが、県が斡旋する以上、そのポストに斡旋する必要性(なぜ県庁OBが必要なのか)、特定の人物を斡旋する理由(なぜその人物でなければならないのか)、任期や給与など(どういった仕事と待遇なのか)を最大限明らかにし、透明性や公開性を確保することを前提として、民間からの要請を受ける、斡旋する、といったことをやらなければならないのではないか。
 
 

 

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沼谷 純はこんな人!

昭和48年3月
秋田市生まれ。仁井田育ち。
平成7年4月
秋田県庁入庁、企画調整課配属。
平成22年12月
政治を志し、秋田県庁を脱藩!
(退職)
平成23年4月
秋田県議会議員に初当選。
現在3期目。
令和3年2月
秋田県議会議員を辞職し、秋田市長選挙に挑戦。
令和5年4月
政治家として再始動を決意。
現在
秋田市横森在住。

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