連日の暑さだ。
夏なのだから暑くて当たり前なのだが、それにしても、だ。
元来、夏か冬か、と問われれば、迷わず「冬」と答えるほど、夏が苦手。
生粋の暑がり、である。
母の生家は旧雄和町にある。
農家ゆえ、古いが大きい家、その裏手に広がる田んぼ、今はコンクリート舗装されてしまったが、当時はホタルが飛び交う堰もあった。
子どもの頃、夏休みになると母に連れられ生家に行った。
年の近い従兄弟たちが集まり、夜通しワイワイとやって、玄関の前で花火をやり、蚊帳を吊って寝て、さて、帰ろうか、という時には、ああ、今年の夏休みもこれで終わった、という気持ちになったものだった。
自分が住んでいた町内の近くにあった神社でも毎年夏祭りがあった。
金魚すくいにチャレンジしては、毎年一匹も捕獲することができず、最後におみやげで一匹もらって帰ってくるというような、至極不器用な少年だった。
夏休みの楽しみ、と言えば、映画館に行くことだった。
私の小学生時代といえば、それはもう何と言っても「どらえもん」や「ヤマト」であった。
仁井田から友達と一緒に汗を吹き出しながら自転車をこぎ、有楽町の映画館で、のび太の大冒険に心躍らせたものだった。
小学校のプールにも通ったし、早朝からカブト虫を取りにも行った。早起きを強いられるラジオ体操の辛さと、誘惑に勝てずにムシャムシャと食べた肝油ドロップの美味さも思い出す。
夏はもう40回近くも体験してきているはずなのに、「夏の記憶」はなぜか随分と遡らないといけない。
オトナに流れる「夏の時間」と、コドモに流れるそれはまるで違う密度を持っているのだろう。
12年ぶりに参議院で「子ども国会」が開かれた。
国会議事堂や国会は、子どもたちにどう映ったか、どういう記憶を残すものだろうか。
同じ議事堂でも、オトナたちが映るいつもの光景と違い、子どもたちがそこに座り、登壇すると、途端に眩しく見えるのは何とも不思議なことだ。
我が秋田県でも、8月21日に子ども議会が開かれる。
選ばれた子どもたちは事前準備を一生懸命やってくれているようだ。
当局側も、オトナ議会と同様に、子どもたちの質問について、真摯に答弁内容を検討し、当日は答弁していただけるようだ。
子ども国会、子ども議会。
これが子どもたちの「夏の記憶」として永く留まることを祈っている。
オトナが語る「未来」は、「誰かの未来」であることが多いが、子どもが語る「未来」は、誰でもない自分の未来そのものである。ないかもしれない未来、ではなく、必ずある未来である。
未来を創る子どもたちが未来を考える機会を、オトナがどれだけ多く、早く与えられるかが、これからの日本の教育の根幹ではないかとも思う。
さて。
オトナの夏には暑さだけではなく問題やら課題やら山積でもあるが、今日も頑張らねば。
知事選が行われた山口県。
結果は、自民・公明推薦の山本氏が当選された。
環境エネルギー政策の論者としてマスコミにもたびたび登場していた飯田氏は山本氏の25万票に対して18万票であった。他の2候補はこの二人の戦いの間で埋没した。
保守王国と言われてきた山口県において、今回の飯田氏の得票数は敗れたとはいえ、見事であったと思うが、山本氏自身、建設途上にあった原子力発電所について、「凍結」という方針を打ち出したことで、「脱原発」か「原発推進」か、といった単純明快な構図にならなかった。そのことで、飯田氏にとっては難しい選挙戦になったのかもしれない。
地方の首長を選ぶ選挙結果を、そのまま今後の国会情勢や国政選挙に当てはめることはできないが、今、「民意」は行き場を求めて漂流している、そんな選挙結果に見えた。
山口県は、米軍との関係も含め、いろいろと難しい政治課題を抱えた地域である。
この山口県の新たな知事となった山本氏が、地域の民意をどう受け止めて、県政運営に当たるか今後も注目していきたい。
願わくば、単に政権批判を繰り返すだけの壊れたレコード盤のような県政運営はやめていただきたい思う。
先般、高松市で開催された全国知事会議でも、「原発をどうしていくか」ということについて、議論は深まらず、まとまることもなかった。
47人の知事が、それぞれ己の立場や主義を無軌道に発信され、自分らでは決められないから、そこは「国が責任を持って」では地方のリーダーとしてはいささか情けない。
佐竹知事も、記者会見において、「民主党政権の地方分権が見るべき成果を上げていない」というようなこともおっしゃっておられたようだが、関西広域連合のように積極的に国の財源・権限を取りに行くという地域・自治体もある中で、佐竹知事のこの3年間のスタンスはどうであったか。
私から見れば、いかにも腰が重く、座ったままで料理が運ばれてくるのを待っているような印象がある。
是非、佐竹知事が主導し、東北にも広域連合を作っていただきたいものだ。
観光、防災をはじめ、地方が連携すればやれることはまだまだある。
ロンドン五輪。
サッカーは女子に続いて男子も強敵スペインに勝利した。
私自身はサッカー素人だが、多くの人がそうであるように、観戦して大いに盛り上がる。
報道によれば、女子日本代表の宮間キャプテンが、試合前の円陣でチームメイトにこう語りかけたそうだ。
「ここに立てるのは選ばれた18人だけ。大切な思いや大切な人がいて私たちは戦っている。」と。
なんとも心に沁みる言葉である。
さて。
この言葉は、政治にだって当てはまる、はず。
県議会であれば、選ばれた45人がいて、それぞれ熱い想いや、守るべき地域や県民がいて、ある意味で戦っている。
しかし、昨今の政治は、スポーツのように爽やかな後味を残すわけでも、感動を与えるわけでもない。
観客=有権者から、がんばれ!と声援を受けるより、なにやってるんだ、とお叱りを受けることのほうが多いかもしれない。
なぜか。
無論、スポーツと政治は違う。
そこを承知の上で敢えて言えば、今、政治は「戦う相手」を間違っているからではないだろうか。
私たちが戦うべき相手は、「不況」や、「マーケット」や、「赤字財政」や「財源なき社会保障」、そして、それらによって引き起こされる国民・県民の「不安」や「不安定」といったものなのである。
国会を見れば、野党が解散総選挙に追い込もうと「特例公債法案」を成立させないというような手段をちらつかせている。
法案が通らなければ、国は財源調達ができなくなり、予算執行できなくなるし、社会保障も地方交付税も、まさに地方の財政や地域住民の生活に直結する問題ともなる。
仮にも、再び政権を取ろうとする政党が「責任政党」を名乗るならば、国民の生活を人質に取って、解散総選挙に持ち込もうなどとするのは、まさに「戦う相手」と「戦う方法」を履き違えること甚だしい、のである。
そんな卑劣なやり方に我が民主党は全く屈する必要はない。
堂々と出すべき法案を出していったら良い。
誰が国民と地方を苦しめるのか、国民の皆さんはちゃんと見ておられる。
私はそう思う。
なでしこジャパンの感動には及ばないが、野田ジャパンも頑張るべし、踏ん張るべし。