もう報道等で皆さま十分ご承知のこと、とは思いますが、今まで一切、知事選に関しては、ここに記してはこなかったので、改めて、思いの一端を書き記したい。
私自身、「選挙」は出来れば避けたい。一度しかやっていない身でこんなことを言うのはよくないのだが、選挙をやらずに、政治家として政策立案や政治活動ができるなら、それに越したことはない。
これは私に限らず、ほとんどの政治家の方がそうではないかと思う。
しかし、その地域の発展や政治の精度を上げていくという意味では、「選挙」ほど、政策を練り上げ、政治家を鍛えるものはない。
とりわけ、地方の首長は大統領制であり、強大な執行権限を持つぶん、いったん、首長というポジションに就いてしまえば、議会があるといえども、4年間を安定的かつ裁量権を持って政治・行政を運営していくことが可能である。
これは議員内閣制や衆・参二院制といった、多様な「抑制装置」が埋め込まれた国とは違う、地方の姿である。
国の場合はこの抑制装置が、逆に「決められない政治」や「進まない政治」を造りだす要因にもなっているわけだが。
端的に言えば、国の場合は、走り出してからも抑制装置が様々に働きやすいのに対して、地方の場合は、走り出してからはなかなか抑制が効きづらいというのが実態であろうと思う。
それゆえ、走り出し=「選挙」が国会議員選挙や地方議員選挙以上に重要であると思っている。
いたずらに対立をすることも、対立軸を作ることもすべきではないのかもしれない。
しかし、「健全な対立」は、地方の政治を活発にし、地域の将来像を明確にしていく上では、必要不可欠だと思っている。
それは知事であれ市町村長であれ、そうだろう。
そういう気持ちを持って、我が民主党会派は佐竹県政に向き合ってきたし、厳しい批判も敢えて繰り広げてきた。
今回、様々な事情により知事選の独自候補を擁立できなかったことは、こういう私自身の思いからすれば、有権者の皆さんに大変申し訳ないと思っているし、それは佐竹知事を支持されている方、そうではない方、どちらの方に対しても、「選択なき県政の継続」という可能性を高めてしまったという意味で良いことではなかったと思っている。
もちろん、まだ秋田県政史上初の「無投票再選」は確定していない。
別の候補者が現れる可能性はゼロではない。
しかし、消極的であれ積極的であれ、この「選択なき県政の継続」を選んだのは、民主党だけではなく、自民党も社民党も公明党も、県政に関わるあらゆる政党であり、その意味では、このまま無投票再選ということになれば、「選択なき県政の継続」に対する結果責任を、各政党が等しく負ったと思っている。
県民が投票行動を通じて、直接佐竹県政を評価し、チェックすることができなかったぶん、今後、佐竹県政をチェックするのは、我々、県議会が一身に負うことになる。
県民の選択機会を奪った(作り出せなかった)その責任を、県議会の各会派が十分にかみしめて、県政に向き合っていかなくてはいかないのではないかと率直に思う。
そして、野党民主党の幹事長、沼谷純は、その責任を最も大きく感じて、県政と県民の皆様に向き合っていきたい。
選挙なき政治は、必ず淀む。
水でさえ、動きを止めれば腐る。
淀むことなき秋田の政治のために微力ながら自分ができること、考えねば。