組織犯罪処罰法の改正案が成立した。
これで、来月11日から、日本においては277の法律において規定されている犯罪行為について、「共謀罪」が適用されることとなる。
政府は、この共謀罪について、組織的犯罪つまりテロを防ぐため、国民を守るため、必要なことだ、と説明をしてきた。そのとおりだ、とか、そう言うならやはり必要な法律なのだろう、とか、その説明を肯定する方も多くいらっしゃるだろう。
私も、テロが起きてよいと思わないし、テロを防ぎ、国民を守ることは国家の責務だと思っている。
しかし、重要なことは、「テロ防止」や「国民保護」という目的に、「共謀罪」という手段が適合しているかどうか、だ。お金が欲しい、からといって、強盗が許されないのと同じように、いかに正しい目的であろうと手段が間違っていれば、その目的が適切に達成されるはずもない。
もう1つ、重要なことは、共謀罪と予備罪・準備罪などがどこが違うのか、ということだ。このことを議論せずに、共謀罪がテロ防止のためだ、などと簡単に理解したつもりになってしまうのは非常に恐ろしいことであるので、少し詳しく解説したい。
まず、我が国において、既に放火や強盗、殺人などについては予備罪がある。殺人を例にとって説明すると、殺人に成功すれば殺人罪、殺人に失敗すれば殺人未遂罪、殺人のために準備を始めれば犯行に及ばなくてもその時点で殺人予備罪が成立する。
つまり、予備罪や準備罪と言われるものは、外形的に何らかの形で証明しうる「準備行為」が必要となる。刃物を購入した、薬物を入手した、といったことだ。
しかし、共謀罪は違う。「殺したい」と思うことや、「殺したい」と他者に漏らしたこと、が処罰の対象となる。準備や着手の行為がなくても「思うこと」「言うこと」が処罰の対象になるのだ。
では、こうした「行為なき意思」や「実行なき言葉」を処罰しようとするときに、日本国家はどうやってそうした意思や言葉を選別し、処罰するのだろうか。どうやって心の中の声、あるいは広大に広がるソーシャルメディアの海にポトンと投げ落とされた個人のつぶやきを選別し、処罰に踏み切るのだろうか。
個々人の心、プライバシー、匿名での言動など、膨大な個人情報を国家が収集し、選別し続けるという機能がなければ、そもそもこの共謀罪で誰かを裁くことなどできはしないということは自明の理だ。逆に言えば、そうした個人情報の収集をするという国家の意思表示がこの「共謀罪」の根底にあると理解しなければならない。
277の法律の中には、商標権、著作権などに関するもの、競馬、競輪、競艇などに関するもの、そのほか私たち国民の日々の生活や権利に密接に関わるものが含まれている。
つまり、日々の生活の中に共謀罪という「内心の罪」がスルリと入り込んだのだ。これが本当にテロ防止のため、という目的に合致する手段だろうか。
私には、国民の内心にまで手を突っ込んで、管理・監視していくことが目的としか思えないのだ。国民を守るための共謀罪ではなく、国家権力に異を唱える(唱えようとする)国民から自分たち権力者を守るための共謀罪ではないかと感じるのは、勘繰りすぎだろうか。
余談だが、イギリスにも共謀罪はある。そして、イギリスでは過去にこの共謀罪は、反体制運動を取り締まるために使われたが、この共謀罪をもってしても先般イギリス国内で起きたテロは防ぐことができなかった。
この一例が、私たちに教えてくれることは何か。
共謀罪ではテロは防げない。防げるのは国民の異論・反論の表意である。そのことを今の政府与党はよく解っている。何を言っても、何を隠しても「どうせ国民はすぐに忘れる」と開き直っている政府と自民党に対して、国民は選挙において「圧倒的な数」を与え、そして今、その数によって彼らは国民をコントロールする「武器」を手に入れたということなのだろう。
国民が与えた権力によって、国民は自らの権力を制限される時代になってしまった。
クマによる死亡事故が後を絶たない。
このように書くと、いかにもクマが「悪」にようになってしまうのだが、本来的にはクマのテリトリーに人間が侵入しているのだから、クマによる、ではなく、山菜取りによる、という書き方が正しいのだろう。
年によって、クマの発生・発見件数は変動するが、ある程度確信的に言えることは、鈴やらラジオやら、音を出していればクマのほうが逃げていってくれる、などという思い込みはもはや全く通じないということだ。
人間そのものを「食べ物」として意識しているか、人間は必ずおにぎりなどの「食べ物を持っている」と意識しているのか、クマに関して素人の私には判然としないが、音を出せば、むしろ食べ物がここにありますよ(いますよ)と自分で知らせているようなものだ、ということは十分認識しておくべきだろう。
しかし、山菜取りのために山に分け入る人は後を絶たない。
個人としての楽しみ、という方もいるだろうし、売るために取りに行く人もいるだろうが、死亡事故が相次いでも、入山者が減らないのは、「自分は大丈夫だ」と思っておられる方が大半だからだろう。装備もある、迷うこともない、危険があればすぐ逃げれる、1人ではない、などなど、どういう理屈かはさておき、自分がクマに襲われて死ぬことを想定あるいは覚悟して、山菜取りに向かう人はいないはずだ。
そうした前提で考えた時、最近、気になったニュースが一つある。
田沢湖地区の国有林を管理する協議会が、これまで山菜取りのための入山者から徴収していた入山料の徴収を取りやめることにした、というものだ。
理由は、「入山料を徴収すれば入山を許可したことになる」ということで、徴収をとりやめ、入山自粛を呼びかけたいということのようだ。
さて。
この理由が私には少々腑に落ちない。
確かに入山料を徴収しなければ、入山を許可したことにはならないので、市もメンバーの一員となっているこの協議会としては、「入山を許可した」という責任は回避できるかもしれない。しかし、一番大事なことは、責任を回避することではなく、いかに入山を抑制あるいは禁止するか、ということだ。
前述した入山者の山菜取りへの執着心や、安全管理への自信(過信)を前提とすれば、入山料を徴収しないことは、むしろ、そうした入山者の入山へのハードルをいささかでも下げることになりはしないだろうか。
今季、これからの入山者の数がどう推移するか、統計などもそもそも取りようがないものではあるが、入山料を徴収しない=タダで山菜取りの人気スポットに入れるというふうに真逆の方向に山菜ハンターらの意識が働きはしないか、ということが私はとても心配だ。
市を含め、責任は回避できたが、入山者はむしろ増えました、ではこうした死亡事故への対策とは言えない。
可能かどうかは別として、本当に入山を抑制するならば、入山料を大幅値上げでもして、その徴収金を原資として、入山抑制のためのパトロールや、事故発生時の様々な行政コストなどに充てるほうがよほど良いのではないかなどと考えてしまうのは私だけだろうか。
温泉での死亡事故なども何度かあったが、こうした事故が全国ニュースで流れるたび、秋田が売りにしてきているはずの自然資源というものが、むしろ売りとして受け止められなくなってしまうのではないか、という気にもなる。
山菜取りは自己責任であるし、誰かに強制されて山に入るものでもない。
私自身、山菜は大好きだが、こうした死亡事故が秋田県全体に与えるマイナスイメージを考えたとき、さらに厳しい入山抑制や事故防止対策が求められることは必須だろう。
入山料タダ、がそうした意味で本当に有効なのか、もう一度立ち止まって考えてもらいたいと思う。
舞台は参議院に移ることとなったが、加計学園を巡って激しいやり取りが当面続きそうだ。
50年以上、ということだから、戦後の日本の人口増加や高度経済成長期の最中にあってすら認めらてこなかった獣医学部の新設が、一校に限り、素晴らしいスピードで認められたことについて、安倍総理あるいはその周辺からの指示、圧力、関与があったのかどうか、ということは正直、藪の中ではないかと私自身は思っている。
元文部科学次官の方が記者会見しようとも、省内で共有されていたとされる文書が公開されようと、安倍政権は知らぬ存ぜぬを決め込んで、押し通すだろう。
その論理や姿勢が国民のどう映るかは別として、だ。
実は、私はそうした何らかの利益誘導的な関与や、それに基づく関係省庁の忖度があったかどうか、ということよりもっと大きな問題や憤りを感じていることがある。
それは、元文部科学次官の証人喚問要求について、政府は「私人だから」という理由をもって喚問を拒否した一方で、その私人を官房長官や閣僚が相次いで記者会見などで、その人格やプライベートについての攻撃を続けたことだ。
政府を挙げて、政府に都合の悪い私人を攻撃する、しかも社会の公器たるマスメディアを駆使し、公然と個人攻撃を加える。
この異常さ、この異様さは、民主主義国家のありようとはおよそかけ離れたものだと言わざるを得ない。
国家がたった一人の私人の人格や行動を、過去にさかのぼって暴き、騒ぎたてるということ自体が異常だが、それが違法行為や犯罪行為であるという立証すらされていないまま、あたかもそうした行為、行為者であるかのように攻撃するのは、国家による人権侵害そのものだ。
こうしたことが、当たり前のように行われてしまう、行ってしまう現政権に対して、底知れぬ恐ろしさと権力へのあくなき妄執を感じてしまうのは私だけだろうか。
今さらのように思うが、確かに民主党政権は短く、拙く、未熟であった。
しかし、現政権は熟れすぎて、もはや腐敗していると私は思う。
権力は腐敗する、という明言を借りるまでもなく、強大な権力を保ち続ける政治的技量に長けた自民党は、安定を超えて暴走、熟達を越えて腐敗を始めたのではないか。
未熟で道半ば、未だ国民の信頼を勝ち得ることができていない民進党が、この局面において何をするのか、加計学園のスキャンダルを暴き、批判するだけの参議院にしないでほしいとも切に願う。
こうした腐敗、利益誘導政治からどう訣別するのか、民進党が自らを厳しく律して、その訣別の道筋を国民に示せるか、そこにかかっているのではないだろうか。