強行採決に関する明確な定義はない。
国会であれ、地方議会であれ、選挙の結果、多数を得た政党が「賛成多数」によって、予算や法案を通していく。
その過程において、反対少数は「反対」や「修正」や「審議継続」を求めるわけだが、これが受け入れられないことは多く、結果、反対少数からすれば、常態的に「強行採決された」という状況が生まれることになる。
その意味では、先日の秋田県議会における「安保法案の今国会での成立を求める意見書」の可決などは、議会の委員会・本会議を通しても、わずか1時間程度しか、討論などが行われておらず、100時間質疑を繰り返した国会でさえ、強行採決というならば、県議会はもはや「急行採決」とも言ってもよいことになる。
採決の形式として、与野党の対立の中でのこうした採決は「よくあること」とは言え、今回の安保法案に関する採決、法案の衆院通過が「今までにないこと」であるのは、これが「野党」に対して強行されたのではなく、「国民」に対して強行された点であろう。
内閣も国会も権力の代行者に過ぎず、権力の一部を分担して担っているに過ぎない。
権力の主、つまり主権者たる国民の大多数が理解していなくても、多くが反対していても、その権限代行者が主の意に反して、法案を通過させるということは、主への挑戦であり愚弄である。
とはいえ、この政権を選択し、この「多数」を選択したこともまた主たる国民である。
我々、政治の道にあるものは、政党を問わず、国会・地方議会問わず、「選択されるため」の最大限の努力をし続けるしかない。
その先に、主権者たる国民がどのような選択をするのか、ここまで徹底的に主権者をバカにした政権というものに国民がどのような反応・判断をするのか、注視していきたいと思う。
政治は、主権者の権能を超えない。
その権能を超えた政治には、早晩、主権者からの強烈な叱責が待っているのではないか。
そうでなくては、民主主義は成り立たないし、育たない。
フィールドに立っているのが与野党、観客席にいるのが国民という構図ではもはやなくなった。
今や、国民は「民主主義」というフィールドに立ち、自らの陣地に蹴り込まれたボールを処理する義務を負ったプレイヤーとなった。