久しぶりに国政のことを書く。
「ねじれ解消」と安倍総理は言う。
「ねじれの解消こそが何よりの景気対策」とまで言う自民党国会議員・候補者もいる。
私から言わせれば、これほど稚拙な主張はない。
ねじれ、とは何か。
単純に言えば、衆議院と参議院の勢力が逆転していることだ。このことで、衆議院を通過した法案が参議院に送られたのに「通らない」、つまり成立しない、といった状況が生じることがある。
これを解消する、というのはどういうことか。
衆議院と参議院、そのどちらも最大勢力が同じくなるということだ。たとえば、衆議院も自民党、参議院も自民党、というふうに。
しかし、当たり前のことだが、衆議院と参議院は選挙の時期がそもそも違う。議員の数も違う。選挙区も選挙のやり方、議員の任期も違う。解散もない。
つまり、何もかも違うのであり、だからこそ「二院制」なのだ。
そのような二院制を敷いた理由は何か。
衆議院とは違う役割を参議院に持たせているからに他ならない。衆議院をチェックする役割、多様な角度、多様な意見によって政策や法律の熟度を高めるという役割を持たせているからだ。
言ってみれば、衆議院がアクセルで、参議院がブレーキというところか。
こういう二院制を採用している限り、ねじれは起こりうるし、逆に言えば、ねじれの状態を憲法は想定して、いろいろな制度的保険をかけている。
自民党が本当に「ねじれ」は悪いことだ、「ねじれ」のせいで景気回復が進まない、と言うならば、まず、「二院制」をやめる、と言わなければ嘘なのだ。
現在の二院制をそのままにして、ねじれが悪い、と言うのは、原因を放置しておいて結果だけを治したい、という我儘で稚拙な論理でしかないのだ。
その意味で、ねじれ解消が必要と叫ぶ人が、自ら参議院議員に立候補しようというのも、なんとも珍妙な話になる。
そういうことを言う方はつまり、「衆議院の言いなりになる参議院が必要。」とでも言いたいのだろうか。
衆議院の「よし」としたものをそのまま「鵜呑みにする」参議院ならば確かにねじれとは言わないかもしれないが、それなら果たして参議院の存在価値はあるのか。自己否定としか言いようがない。
繰り返しになるが、選挙の時期もやり方も役目も違う二院制において、ねじれは当たり前に発生する。校則を作る側が、作った校則を変えようともせずに、「廊下を走る人が大勢いるのは校則が甘いんだ」と叫ぶような幼稚さで、ねじれを「悪」と言うのは何とも情けない。
そういうねじくれた思想こそ、解消してもらいたいものだと思う。
なんでも自分の思い通りにしたい、思い通りにならないのは周りが悪いのだ、といい歳をした大人たちが駄々をこねているということか。
ブレーキの効かない車に国民は乗ることになるのかどうか。