民意を問う。
選挙の際に必ず言われる言葉だ。
政策を提示し、ビジョンを示し、そして政党として、あるいは、政治家として、民意を問う。
しかし、私はこの民意の問い方そのものがもはや機能していないのではないかという気がしてならない。その気持ちは今回の選挙でますます強くなった。
政治家にとって、「選挙」とは「隘路」だ。その隘路を無事通り抜けられる者もいれば、通り抜けられずに押しつぶされたり、遅れたり、ということになる。無事通り抜けられる数は決まっている。
この選挙という「ポイント」に向かって、たとえば、国政課題が先送りされたり、離党や入党や新党結成など慌ただしい動きが繰り広げられる。
いかに、そのポイントを無事に通り抜けるか、ということが大きな命題となり、政党は「痛み」を先送りし、政治家は「勝ち馬」に乗ろうとし、泥船からは逃げようとする。
こういう姿を国民は見ている。
そして、数年に一度しかない投票機会なのに、どんどんと国民は冷めていく。
昨年末の民主党からは、まさに泥船から逃げるようにして離党が相次ぎ、そして、にわか新党ができ、この参院選でそれらの新党はほとんどが消えた。
こういう姿は本当に国民を失望させたと思う。
今回の選挙でも、どの政党も「痛み」について触れることはなかった。増税や社会保障制度改革といったこれから待ち受ける痛みについてもほとんど語られることはなかったし、原発政策や被災地の復興など、目下の痛みについても、議論は低調だった。
これは、民主党も含め、「選挙」という隘路をなるべく安全に通り抜けようとする力学が働いたものだろうし、そこにどこか「空々しい」ものを感じた国民も多かったのかもしれない。
このように考えていくと、選挙において「民意を問う」ということがどこまで可能なのか、本当に可能なのか、と考えざるをえない。
今、国民投票という制度は憲法改正においてのみ発動する。
しかし、日本の行く末を決める政策について、もっと国民投票が行われてもいいのではないか、というのが私の率直な気持ちだ。
原発再稼働、消費増税、社会保障制度改革、TPP参加・・・こうした重要な国政課題が、選挙のときだけに抱き合わせ商品のように「問われ」、「選択される」のではなく、それぞれの課題について選挙とは切り離した形で、国民投票が行われるならば、それが何よりの「民意」の問い方ではないだろうか。
国民が政治に参加している、という実感が持てるし、その結果が政権の政策判断にダイレクトに影響を与えることにもなる。
そして何より、国民の皆さんに「投票」という行為や意思表示が、日常的なものとなることで、政治離れや投票率の低下といった状況についても幾ばくかの処方箋になるのではないかと思う。
今回の選挙戦、他陣営はもしかしたら違うのかもしれないが、少なくとも私から見て、民主党がどうこうという以前に、「選挙」や「政治」そのものに有権者が倦んでいるような、熱や関心のなさを感じた。
自民党が政権復帰し、国民の信頼と、自分たちが思い描く日本を取り戻したとしても、この「政治に対する熱のなさ」はそうそう変わりようもない気がする。
民意を問うということを、政治がもう一度真剣に考えるべき状況に来ていると感じる。
是非、解散のない参議院でこそ、腰を据えてこうした選挙制度改革や、政治と国民を近づける取組を進めてもらいたいものだ。
長い17日間の戦いが終わった。
敗因や、今後のことや、選挙戦を通じて感じたことなどを少しずつ書いていこうと思う。
振り返って記録することは、報道機関だけの仕事ではなく、むしろ選挙の当事者たる我々こそが、しっかりと振り返り、そして選挙期間中にはなかなか言えなかったような部分も含めて、県民の皆様にお知らせするべきだと思う。
そしてまた、私自身、これまで民主党公認として県議会議員になり、責任や使命感や恩返しといったことも含め、言いたくないことも言い、言いたいことを封じ込めながらやってきた部分もあることは事実だ。
この参院選をもって、私の4年の任期中の国政選挙はおそらく幕を閉じた。衆院選、参院選そして首長選挙など、この半年で三回の選挙に関わったが、これからは選挙から少し離れて、自分自身こともいろいろ考えていこうと思うし、もう少し自由に思うことを書いていきたいとも思っている。
さて。
衆院選に続いて、参院選でも民主党は大敗北した。
至極当然のことだと思う。
「政権交代」を目的化した政党は、その目的を達した時点がおそらく政党としてのピークであっただろう。そして、そこからはいかに辛抱強く、しなり強く政権運営を続けるか、どれだけそこで踏ん張れるか、ということで、そのピークを少しでも長く、少しでも高い状態で維持するということが必要だった。
しかし、それができず、さらには、地方組織から見れば「無策」としか言いようのないタイミングと判断で衆院の解散総選挙に打って出て、結果、惨敗した。
どうせなら解散総選挙がもっと早いタイミングで行われ、その後、一定の期間を経ての参院選挙であったなら、今回の結果はもう少し(もう少しではあるが)変わったかもしれない。
衆院からわずか半年、国の予算編成や年度変わりなどを挟みながら、安倍政権が様々なアドバルーンを上げる中では、そのアドバルーンの真贋を国民が見極める時間もないのは当然であり、完全に衆院選からの流れを引きずったままの参院選となった。
そして、参院選において民主党という政党が、その流れに少しでも抵抗しうるメッセージや発信力、戦略があったかと問われれば、残念ながら誠に乏しかったと言わざるを得ない。
漫画風の政党ビラを大量にまき散らすだけで、党勢の回復が果たせるわけもなく、「アベノミクスは危ない。」と批判するだけで国民の信頼が取り戻せるわけもなかった。野党共闘の主導権を握ることもできなかった。
我々、地方組織はそうしたことを何度も訴えたが、党本部の反応は緩く、鈍かったと言わざるを得ない。
民主党は漂流している。
民主党の端くれにいるからこそ、率直にそう感じる。
どこにたどり着くのか、流されていくだけなのか、私にもわからないが、野球チームと同じように、攻撃力もなく、さりとて守備力もなく、負け続けるチームを応援する人は減っていくだろう。
敗戦から一夜明けた今日。
松浦大悟は、朝の山王十字路に立った。
本人も相当な思いをかみしめ、押し殺して、この選挙戦を戦ったはずだ。
敗北の翌朝に街頭に立てる精神力に、私は驚嘆もしたし、正直、目頭が熱くなった。
こういう政治家を再び国政の場に送り出せる力が、民主党という政党にあるのかどうか、と問われれば、非常に厳しいと言わざるを得ない。民主党は、衆院選そして参院選という2回の選挙において、全国の多くの有能な仲間を失ったことの罪を十分に認識しなくてはいけない。
そして、まさにこの焼野原となった民主党が、その荒廃した大地から再び何かの花を咲かせようとするなら、民主党という縮みゆく集団のみで復興を成し遂げようとするのではなく、解党的な再編も恐れることなく、同じ志を持つ政策集団を作り上げることが必要かもしれない。
そのときに、まさに地に足をつけ、再び歩みだそうとしているこうしたひたむきな政治家をきちんと大事にできる政党であってほしいとも思う。
民主党秋田県連としての今回の戦いの反省や、私自身についての責任についても明日以降改めてきちんと書きたい。
参議院選挙も10日目となった。
全県選挙というのは本当に大変だな、と率直に思う。
広大な秋田県を17日間かけて走り回る。とはいえ、時間的制約もあれば、法律上の制約もある。さらに、体力・気力も限界まですり減らしてやることになる。全県選挙は、何らかの「資質」というか「資格」のようなものを得た者でなければできないのだなあ、と思う。
その意味では、今回の4人の候補者には心から敬意を表したい。
全県選挙に足る資格や資質にはいろいろな種類があるだろう。
たとえば、前回、松浦大悟という人間は、その「知名度」こそが最大の武器であり、全県選挙を戦える「資格」だったのではないだろうか。そして非自民勢力の組織力、あるいは民主党への追い風といったものを活かして当選できた。
しかし、今回は現職として戦いに挑んでいる。当然ながら、知名度だけ、情熱だけ、で選挙を戦うというわけにはいかない。現職に対する最も一般的な風当たりとして「お前はいったい何をやってきたんだ」、「何に取り組んできたんだ、その成果は」といったことを言われる中で、そうした実績や経験をしっかりお伝えするというのが選挙戦におけるスタンダードな戦い方になるだろう。
一方で、知名度が全くない新人候補などは、逆に知名度や力のある政治家の応援を得る、あるいは、政党を全面に出して組織戦を行うといった戦い方が、全県選挙においては必然的に求められるだろう。これもまたスタンダードな戦い方だ。私は全県選挙ではもちろんないが、2年前の選挙では民主党という組織、寺田学さんという政治家の知名度に頼った。
その意味で、選挙戦は、それぞれが持つ強みや、置かれた条件において、当然、各陣営違う戦略を持って戦うことになるのであり、それをあれこれ論評することもあまり意味がないだろう。
ただ1つ、言えるのは、国政選挙は各政党の政策を比較し、選択していただくことが中心だとするならば、今回はその比較に足るような具体的な中身が政府自民党から出ているとは到底言えず、「これから地方でも実感できる景気回復を」と言っているだけでは、「中身のない弁当」のようなものだということだ。
幕の内弁当ありますよ(=景気回復)、と言って、まず先にお金を払わせ(=物価上昇)、いつまでたっても弁当は出てこないどころか、出てきても「ノリ弁」、最悪「空っぽの弁当」ということになるのではないか。
そしてまた、候補者個人としても、政党の主張をただオウムのように繰り返すだけなら、その人間の本当の想いはどこにあるのか、その人間が国政の場において何をやりたいのか、少々不明確で物足りない気持ちにもなるのではないか。
政党と個人の主張が完全一致するとすれば、個人としても、地方交付税の削減も「賛成」、原発輸出も「賛成」ということになるし、沖縄や福島で政党の公約と違う主張を訴えている地方県連組織があることは「ありえない」話ということだろう。
いずれにせよ、それぞれの候補者の強み、条件の中でお互い、主張や想いを有権者の方々に届けるべく、前向きに切磋琢磨をしていただきたいと願う。