社員A 「今までうぢの会社は会議時間は毎回1時間って決めてダスけど、これがらは2時間って決めるすべ。なんたふうにして会議進めるか、社員の人だぢの負担をなんとするが、そういうごどは後から考えるすべ。」
社員B 「いやいや、1時間だばなしてダメなのよ?2時間にしたって会議の中身が良ぐならねば意味ねしゃ。会社のためになるが、お客様のためになるが、社員の負担なんとするが、そういうごど考えねで、ただ2時間にせばいってもんでねしゃ。」
いきなりこんな会話から始めてしまったが、県議会の会期を見直す、という議論の論点は、単純に書けばこういう会話になる。会議時間=開会日数、と読み替えていただきたい。
今日開かれた議会運営委員会で、こういう議論がなされた。
時間枠を決めてしまってから中身を決めよう、というから誠に珍妙な話なのだが、残念ながら、民主党会派を除く全会派が「社員A」の立場を取った。
社員Bは当会派のみ。
自民党ほか他会派は、今日、定例会を年2回とすることに同意した。
当会派は、判断を保留した。
メリット・デメリット、何が変わり、何が県民・県政にとってプラスになるのか、を冷徹に判断しなければならない。 「中身」が本当に充実するのか、議員自らが充実させる気があるのか、単なる県民に対するパフォーマンスやアリバイ作りと映らないか、といったことも含めて。
なんとなく「改革的」で、なんとなく「前向き」な雰囲気に流されるときほど注意が必要だ。他の先進議会のマネをして、スタイルだけ取り入れて「改革的」にやろうとしても、それが真に改革とはならないという悪しき先例になるのではないか。危惧している。
また、自民党会派は、前回の議会運営委員会において当会派から提案した改革項目について、何の検討も行っていなかった。
「中身」の議論をせずに、自らの主張である「器」にだけこだわって、他の意見や提案を顧みないという姿勢であるならば、これこそまさに数の暴力と言わざるを得ない。
もう1つ。
当会派が提案していた「一般質問の分割方式」。
30分も議員が質問原稿を読み上げ、知事がそれに延々と答えるというスタイルは、聞いている県民にとって、誠に聞きづらく、質問と答弁が一対にならない。
が、この提案に対して返ってきた言葉にも苦笑せざるを得なかった。
「30分も自分の想いをしゃべり続けられるのは議員として本当にありがたいこと」
「一度も一般質問をやったことがない人間が、今のやり方を変えるというのはまだ早い。」
これこそまさに県民不在。
10時間話そうと、1分も聞いてもらえなかったら意味がない。伝わらなかったら意味がない。
やったことがない人間だから、普通の県民の目線で言えること、感じることがある。
議会が、議会の論理、数の論理にとどまっている限り、議会と県民の距離は縮まらない。
しかし、全てが空振りではない。
当会派から提案をした「議員賛否の公開」や「議員間討議の導入」は議会の合意が図られた。
「政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い岩に力をこめてじわっじわっと穴をあけてくり貫いてていく作業である。」
マックス・ウエーバーの言葉を思い出しながら、明日からまた頑張ろう。