国内の原発が全て停止するその瞬間までのカウントダウンが始まった。
これを「経過」と捉えるか、「結果」と捉えるか、に尽きるのだと思う。
脱原発を唱える人、原発がなくても日本の電力は足りると主張する人は、これを「原発なき日本」という結果として捉えたいだろうし、原発を再稼働してほしいと願う地元住民や、原発がないと電力不安で仕事ができないという産業界の方々にとっては、必要上やむを得ない一時的な措置、「経過」として捉えるだろう。
私はこれまでも繰り返し述べているように、「原発不要論」に賛同する。
原発立地地域の方々が、原発マネーで支えられてきた、だから、このマネーがなくなると困る、仕事がなくなる、ということは確かにそうだが、それならば、原発によって雇用されてきた方々が新たな仕事に就けるよう、所得補償でも雇用対策でも、通常のスキームとは別の特別措置を実施すればいいのであって、冷たい言い方をすれば、一地域の産業・雇用維持のために日本国民全体の生命を引き換えにはできないと私は思っているし、原発リスク対策に注ぎ込むお金があるなら、今、原発によって暮らしている方々の雇用ぐらいはいかようにもできるだろうとも思う。
原発は、「エリア」や「セクター」ごとに利害が分かれるものだが、その利害を超えたところで判断していかなくてはならない問題だし、その判断を「国会」という器にだけ任せていてはいけない、という気持ちもある。
こんなときこそ、国民投票、という気持ちも震災後1年経った今も変わらない。
原発事故の当事者である日本が脱原発を決められないでいるのに、その事故から3カ月後にはドイツでは脱原発宣言が出され、イタリアでは国民投票が行われ原発稼働凍結が決まった。
いずれも、事故前からの流れや経緯があるとは言え、「フクシマ」が世論形成や形成のスピードの与えた影響は大きいことは確かなようだ。
ドイツやイタリアにできて日本にできないのは、「政治のせいだ」、「決められない政治だ」とおっしゃる方もいるかもしれないが、我が国における原発や原発を巡る既得権益は、経済や企業や地域も含めて、非常に複雑で、それを「政治」の力だけでひも解き、解決しろ、というのは難しい。
政治に求められる自浄作用と同じく、原発立地地域や経済界が自らの立ち位置を自ら見直すということがなくては、単に政治がサンドバックになって終わりである。
それは、自民党に政権が変わったとて同じであるし、むしろ、自民党なら稚拙な民主党政権と違って、上手にそれとなく再稼働し、原発との共存をいつの間にか既成事実化してしまうかもしれないが。
つまり。
脱原発は国民自らが選択しなくてはいけない。
その選択機会を政治が作り、原発なき日本は、国民自らの手で創り上げなくてはならない。
憲法記念日である。
現在の憲法が制定された経緯を横に置いても、やはりいろいろと議論すべき点の多い憲法であることは確かだろう。
しかし残念ながら憲法を巡る各政党の主張はいささかクラシックすぎはしないか、という気になる。
たとえば、自民党。
改正案では天皇を「元首」とし、自衛隊を「国防軍」とするそうな。
さて、これは果たして「正しく改める」ことになるのか、といささか疑問を抱かざるをえない。
今般の大震災などを契機として自衛隊の役割や存在意義が改めて認識されたわけだが、ああした復旧活動は「軍隊」でなければできない、というわけではない。
果たして、今の日本国民の「問題意識」や「時代認識」として、天皇を元首に、自衛隊を国防軍に、という主張にどれだけの納得性や説得性が得られるだろうか。
社民党なども「護憲」一点張りである。
さらには、原発事故とも絡めての護憲というような流れにもなっているようだが、いささか脈絡が感じられないし、とにかく現在の憲法をアプリオリなものとして、堅持すべし、という主張もまた、「現代」を捉えているとは私には思えない。
かと言って、誠に残念ながら我が民主党も、様々な問題点に対して、明確な主義主張が打ち出せているとは言い難い。
私は、憲法は、「国の統治の仕組み」と、「個人の権利と義務」の2つが必要にして最小限度定められるべきだと思っている。
後者についても、今の時代に合わない部分、あるいは、憲法の改正ではなく、「社会」をむしろ憲法の理念に合わせていかなくてはいけない部分があると思うが、とりわけ、「統治の仕組み」については、実に脆いと私は感じている。
私が「生業」にして18年目となった「地方自治」も、憲法には「地方自治の本旨にのっとり法律で定める」とはあるが、果たしてその「地方自治の本旨」が何なのか、憲法上では一切触れられていない。
地方分権、地域主権などと、自民党であれ民主党であれ、言葉は良いが、憲法上における「地方自治」の規定が十分とは思えない。
また、国においても、今、「決められない政治」などと言われているが、決められない政治だとすれば、その根本原因は「憲法」にあることは明白だ。
憲法が、ねじれ国会であったり、様々な法案が通らない状態や、衆参の二院制や議員内閣制といった、今日の状況と、その状況を生みだす仕組みを「想定」し、「容認」しているのだから、これを直さない限りは、決められない政治に対する対症療法はあっても、根本治療にはならない。
維新の会やみんなの党が、この統治の仕組みを憲法改正の一丁目一番地にしているようだが、私はこれには素直に賛同する。
憲法によって統治の仕組みは決まっているが、憲法自身が創りだした統治の仕組みによって憲法改正は行われることにもなっている。
ニワトリと卵の関係ではないが、私はまず、地方自治も含めた日本の統治の仕組みを大いに議論するような、そんな憲法改正論議を期待したい。
そんなことを考える1日だった。
さて、今日は硬軟の「軟」。堅いのが好きな方はどうか読み飛ばしていただきたい。
よく、「音楽の力」などと言われる。
それがなくても食べるのにも生きるにも困らないはずの「音楽」や「アート」がなくならないのは、やはりなくてはならないものだから、なのだろう。人はパンのみにて・・・である。
私も28年、夢中になって聴き続けている音楽がある。
人それぞれの人生に、それぞれの音楽が寄り添っているように、私にとってもその音楽は、いつも私の背中を押してくれた。
今までも、今も、一番キツイ日や登壇の朝、必ず聴いている。
「I am」
今日も50歳を過ぎた彼らのこの久々の新曲を繰り返し、繰り返し訊き直しながら、自分を鼓舞している。
彼らの音楽がなければ、今の自分はいないな、と心底思う。
中学の時、虐めにあっていた自分を救ってくれたのは彼らの曲だった。
みな、音楽に救われたり、音楽に励まされたりしながら生きている。私もその中の一人だ。
祈ること、、歌うこと、願うこと、それが人の生を豊かにする。
そんな気がする。
Yes I am a human
気恥しくなるようなそんな歌詞だが、こんな時代だからこそそのぐらいのストレートさで良い。
自分を肯定するのがとても困難な時代だからこそ、自分で自分を肯定しながら前に進むしかない。