昨日、「岩城のかあさん」を訪問した。
新聞などで「おかず箱」をやっている会社として紹介されているので知っている方も多いかと思う。
この会社が旧岩城町、天鷺城そばにある。
この会社に興味を持ったのは2つの理由からだが、改めて、この「おかず箱」のシステムについて簡単に触れたい。
このおかず箱事業は、保存のきく真空パックの「おかず数十種類」をあらかじめ契約家庭に宅配し、各家庭では、食べたいときに食べたいぶんだけを食べて、その「おかず」の料金を払うという仕組みになっている。
既に宅配弁当サービスはいくつもあるが、あれは注文に応じて配達して、その都度食べてもらうのが基本になるし、食材などが届くサービスは、定期的に決まったものが決まった量配達されてくる、というシステムになるが、このおかず箱はそのどちらでもなく、これが「富山の薬売り」の「置き薬」の商法に近いと言われるあたりだろうか。
事業者は、定期的に契約家庭を訪問し、食べて減ったぶんのおかずを補充していく、その際に、高齢者世帯であれば安否確認や、買い物代行など、よろず困りごとにも対応しましょう、という付加価値をつけたサービスを展開するということになる。
私は、この事業について2つの意味から大変興味を抱き、今回、会社訪問をさせていただいた。
1つは、高齢化に直面している秋田において、安否確認であれ買い物代行であれ、高齢者世帯へのアプローチが課題となっており、家から出てきてくれる人は良いが、そうではない人の場合、こちらから訪問する、というようなことが必要になってくる、その訪問を、この「おかず箱」という事業によって理由付け・価値づけしているというところに新しさを感じたこと。
もう1つは、この会社が、そうしたおかず箱をはじめとした食品加工を行うために、廃校をはじめ、地域で使われなくなった、公共施設や農業施設などを「再利用」し、低コストな事業展開を行うとともに、その地域での雇用を少しずつではあるが作り出していること。
選挙の際、企業誘致などのないものねだりではなく、地域にあるものを使う、「あるもの生かし」にこだわりたい、と言い続けてきたことからも、今回の企業訪問となった。
いろいろとお話を伺い、加工所やハウスなども見せていただいたが、大正生まれの会長の元気さと商魂には舌を巻くばかりであった。
とはいえ、このおかず箱ビジネスにはまだ課題が多いこともわかった。新聞やニュースだけではなかなかわからない部分であるが、1つは「おかず」の高さ。
おかず箱に詰め合わせされるおかずは、1品およそ200円〜300円程度。弁当と違って、自分で米やみそ汁を用意しなくてはいけないことを考えると、高齢世帯にとっては1品にその単価は少々高いだろう。
この点は、今後の加工施設の大規模化、設備投資などでコストの低減を図っていくことで解決していきたいというお話であった。
も1つは、このおかず箱を実際に各世帯に配達し、同時に定期的に安否確認などをする「配達者」のコストと採算性の部分。
各家庭でのおかず消費量が少なければ、定期訪問をするガソリン代などのコストに見合う収入が得られないことになる。
しかし、私個人としては、この事業モデルは是非秋田に定着してほしいと思っている。
行政が高齢世帯の安否確認を行うとすれば、こうした柔軟な事業モデルは無理で、直接的に「安否確認」だけを目的にしてやっていかざるを得ないが、企業がこの事業を行うことで、「食」や「住」に対する様々なサービスを同時に提供していけるというメリットが出てくる。
廃校利用、廃農業施設の利用も含め、こうした柔軟な取組を、行政がどこまで後押しできるか、その広がりを支援するような方策がないか、考えさせられる日であった。
自民党が「今後の社会保障制度に関する基本的考え方」を公表した。
国会では最低保障年金制度などについて、撤回しろとかしないとか、いろいろな議論があるが、そのことは少し横に置き、その内容について、1つ気になったことがある。
それは、
「家族の力の喪失などを背景に、子育てなどの社会化が進められようとしているが、いたずらにそうした道を選ぶのではなく、家族内の精神的、経済的、物理的な助け合い、家族力の強化により、「自助」を大事にする方向を目指す。また、自発的な意志に基づく「共助」を大事にし、その力が十分に発揮される社会を目指す」
との一文だ。
美しい文章だが、こういう社会をどうやって作るのだろうか、と悩んでしまう。
家族で頑張れ、お互いに助け合え、と言うだけなら政府も制度も要らない。
まして、子育ての社会化は「いたずらに」選ばれたわけではない。
この理念に照らした場合、たとえば、全国の自治体が実施している「保育料助成」は自助ではないからバラマキだ、ということになるのか、あるいは、本県が今年度から拡充した「医療費助成」もまた手厚すぎるからバラマキだ、といことになるのか。
核家族化や、独居高齢世帯の増加といった日本の「家族単位」の変容や、そもそも「家族制度」がどうあるべきか、といった議論がある中で、果たして「家族力の強化」といったことが可能なのか、むしろ古典的な「大家族」幻想が見え隠れしないか、といったことも気になる。
これはつまり、脱「公助」ということだろうか。
一方で、もう少し読み進めていくと、少子化対策についてはこう書いてある。
「これからの少子化対策は、単に子ども・子育て支援ではなく、若者支援、結婚、出産、子育てを幅広く支援し、子育てを幸せと実感できる家族支援政策を積極的に進める。」
さてさて。
少し矛盾しはしないか。
自助を高らかに謳いながら、ライフステージを通じて家族支援を展開する、というのはどう整合性を図るのか・・・・どなたか解りやすく解説してもらえないだろうか。
生き方や価値観がこれほど多様化している中で「家族」という枠組みを前提にした少子化対策、ということそのものに無理があるのだ、と思うのは私だけか。
昨日に引き続き、県政協議会の話題。
夏の電力需給の関係で、東北電力管内は、電力需要のピーク時に当たる8月でも3.8%の余剰(予備)があるということで、今年の夏は県としても特に数値目標などを定めず、企業や県民の皆さまには自主的な節電の呼び掛けを行う、という説明があった。
私は別にヘソ曲がりなつもりはないのだが、この説明にもいささか違和感を感じた。
北海道でも電力不足、関西でも10数パーセントの電力不足というような状況の中で、特に西日本では電力を融通して関西の電力不足を補おうというような案も出ているわけで、東北とて、自らの需要が自ら賄えているからいい、とは言っていられないのではないか、というのが私の気持ちだ。
脱原発を支持する私としては、フクシマを抱えた東北、多くの被災者や避難者を抱えた東北の一員、その秋田として、「原発なき日本」を東北から発信していくべきだと思っているし、そのためには、自分たちの地域が間に合えば良い、ではなく、不足が予想される北海道はもちろん、被災地の電力需要、日本全体の電力需要を考えた時に、「秋田から日本のライフスタイルを変えていこう」というぐらいの気持ちを持って節電に取り組んでいくべきだと思っている。
去年の夏を我が国は乗り切った。
その体験が色あせ、忘れさられ、安易に後戻りすることがないよう、私は節電対策を緩めてはいけないと思うし、そういうことを進めていくことが、ひいては秋田の付加価値や、エネルギー産業の振興といったことにも繋がると思っている。
なお、改めて数字の確認をしてみると、東北電力管内で3.8%の余剰がある、とはいえ、出力ベースで見ると、東北電力全体で約1450万kwの出力があるのに対し、秋田火力発電所がその約10%の130万kwを担っていることからして、もし秋田火力の2号機〜4号機のうちどれか1つでも何らかの原因で停止してしまえば、この3.8%という予備はあっという間に消失するということが解る。
いたずらに不安を煽るようなつもりはないが、東北とて安心は禁物ということであり、私たちは、原発から自然エネルギーへ、という長い道のりの、後戻りしてはいけない道の前に立っていると思いたい。
その思いを持って、昨夏の「緊急対策」から、今夏以降の「恒久対策」としての節電や省エネ、ライフタイルや価値観の転換に結び付けていくような県民運動、そして国民運動を展開してきたいものだ。
全く話は変わり。
今日、1つ過激な記事を見つけた。
「長崎県の中村法道知事は22日、臨時記者会見を開き、13日の自民党県連大会で、民主党を批判したことについて「おわびしたい」と陳謝した。知事が民主党政権について「課題に対応する能力があるのか。疑問を禁じ得ない」と述べたのに対し、同党は21日、長崎県の政府要望を受け付けない決定をした。
知事は「重大な責任を痛感している。地方から見た場合に国政はどうかという意味で申し上げた。表現が不適切であればおわびする」と釈明した。」
とある。長崎県の民主党県連が知事の発言を問題視したようだ。
長崎はいろいろと難しい土地柄のようであるが、それをさておいても、最近、地域の代表たる知事が、あれこれパフォーマンスのように政府に噛みつくような姿がまま見受けられる。
手柄は自分のもの、責任とミスは政府のもの、というような政治スタイルは、案外、地域の有権者に見透かされているのではないだろうかとも思う。
長崎に比べれば、我が県連は温厚な方々揃いである。ムダなところにエネルギーを割かないこれも省エネということか。