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クマ牧場。

2012年04月22日

 玉川温泉事故以来、ということになろうか。
 再び、「秋田」の名前が全国ニュースになってしまった。
 何よりもまず、今回の八幡平クマ牧場の事故により、お亡くなりになられたお二人の方のご冥福をお祈りするばかりだが、ご本人も含め、ご家族・ご親族の方々はやりきれない気持ちでいっぱいだろう。

 今回の事故(事故という表現が適切かどうか悩ましいが)については、現時点で報道等でしか私もまだ知らないが、それで見る限りにおいても、管理・飼育などの方法において、適切であったとはとても言い難い。

 当然のことながら、従前からの管理方法を含め、所有者の責任が第一に明確にされるべきであるが、法律上の県の役割・立場についても、ここで簡単に書いておきたい。

 「動物の愛護及び管理に関する法律」(通称「動物愛護法」)において、県は、クマやライオンなど特定動物を飼育する者に対して、許可権限を持っている。
 許可の際には、「飼育する数・種類、飼育施設の内容・規模」などを確認の上、許可を出すことになり、立ち入り調査の権限や、許可取り消しの権限も持っている。

 報道でも、飼育頭数に関する情報が錯綜していたが、どうやら、38頭との届け出が実際には34頭だったというような状況であったらしい。
 県は数度にわたって立ち入り調査や指導などをしていたようだが、飼育頭数すら正確でない状況の中で「指導」のみに止めておいたのだとすれば、それが果たして許可権限者として適切であったかどうか、そのあたりは県としてしっかりとした説明が必要だろう。
 屋根もない中で、夏も冬も吹きさらし、冬眠をさせる環境もなく、学校給食の残飯とリンゴなどを与えるだけだったとの情報もあり、劣悪な飼育環境に置かれていたことも推測される。
 この施設は、有料での餌やり体験など、民間観光施設としても20年以上運営されており、県としても数度にわたって、許可の更新手続きをしていることから、こうした飼育環境が相当前から続いていた可能性もある。

 明日は4月当初の暴風被害への対応などに関する臨時議会が開会されるが、今回の事故についても県が今後どのような対応を図っていくか、注視していきたい。

 秋田県の観光振興という意味でも、こうした1つ1つの問題に対して、丁寧に対応していくことが必要であり、そうしたことの積み重ねこそが本県の観光誘客に関する「受け入れ体制」の整備につながるものだとも考えている。


 

根性なし。

2012年04月19日

 今日は少し、独り言のような書き出しから始めたいと思う。

 もうピークが過ぎたが、春は入学式のシーズンだ。
 私も、地元の小中学校の入学式などにお邪魔させていただいた。
 ほほえましいような、照れくさいような気持ち、そして、この子どもたちがこれからどんな思いや経験をし、社会に出ていくのだろうと思うと胸が自然と熱くなった。

 そして、その姿に自分を重ね合わせ、幼いころを思い出したりもした。
 自分が小学校時代に父親と離別し、母と私と6歳離れた弟との生活が始まった。
 母が日中働きに出て、弟は保育園に、そして、私がその保育園に弟を毎日迎えに行き、自転車の後ろに乗せて帰ってきた。
 当時の保育園は、今ほど延長保育などが充実していなかったから、母が仕事帰りに迎えに行くのでは間に合わなかった。
 私は当時スポーツ少年団、いわゆるスポ少で野球部に入っていた。自分で言うのもなんだが、「ヘタ」だった。ヘタではあるが、まあとにかく一生懸命だった。当時の監督もその一生懸命さだけは買ってくれていたように思う。
 しかし、母が保育園に迎えに行けないのであるから、それ以外の誰か、となれば、私ということになる。
 どうせ、ヘタだったのだし、見込みはない、と自分を納得させて、野球部を辞めた。
 退部の理由を言わない私を監督は訝しがり、心配し、激励し、「もう少しでレギュラーだ」と言って引き留めてくれたが、その暖かさに耐えられなくなった私は、「練習がきつくてついていけないんです。」と大ウソを言い放って、走り去った。
 そんなふうに言ったものの、根性だけには自信があった。うまい言い訳が見つからなかっただけだった。

 が、それ以来、男子クラスメイトの中では「根性なし」という評価がすっかり定着した。
 中学校に入り、弟も小学校に入り、私は再び部活動を始められる環境となったのだが、今更野球部になど戻れない。戻れるわけがない。ということで、様々な部活を転々とした。
 自分が根性なし、と言われることは耐えることができたが、家庭のこと、家族のことをネタにされたときには、授業中でも昼休み中でも、相手に掴みかかった。
 喧嘩は強くないくせに、よく喧嘩をして、時に取り囲まれる羽目に陥り、よく逃げた。逃げると家に電話がかかってきたが、母親にはまるで友人からの呼び出しように応対し、バレないようにした。

 しかし、ストレスもある。中学校時代は、ここでは書けないようなことも含めて母親には迷惑をかけた。
 迷惑をかけただけではなく、「俺はこんな家に生まれてきたくなかった」と傲然と言い放ち、その言葉の「刃」の鋭さにも気付かず、悄然とする母の背中を睨みつけたものだった。
 6歳離れた弟に対しても、随分ひどい八つ当たりをしたが、この当時のことについては母にも弟にも謝ったことはないし、これからも面と向かって謝ることはないだろう。家族なんてそんなものだ、と勝手に思い込んでいる。

 そうした小中学校時代を経て、高校に入学し、自分の将来を漠然と考えたとき、「教育」の道を選ぼうという気持ちになった。
 「こんな家」と言った自分が、一人前の教育を受け、大学進学を目指せるような状況になったことは、家庭や学校のおかげ。何一つ不自由ない、などとは言わないが、その不自由さを埋めてくれたのは、つまるところ「教育」だと思ったからだ。

 「教育」こそが「格差」や「貧困」や「争い」や「犯罪」を無くしてくれる、と心底思い、そこに光を見た。
 教育学部に進んだ私が教師にならず役所に入った理由は長くなるのでここでは書かないが、役所に入ってからも、今の仕事に就いてからも、「教育」の道から外れたとは思っていない。
 立場や関わり方が違うだけだ。
 「教育」や「機会」こそが次世代に必要なものであるし、次世代にとって必要なものが結局、社会を変えていく原動力になるものだとも思っている。
 「世襲、二世三世、こんな人ばかりじゃダメだ。政治は全ての人に開かれていなければいけない。」と選挙戦で訴えたのも、自分の経験から出た率直な想いだった。
 結果、父親のいない私が、様々な想いとご支援をいただいて、今の仕事に就いている。
 「教育」と「機会」によって私は政治家になることができた。これは間違いないし、何をおいても、感謝、感謝である。

 さて。
 ここまでの話は全て前置きだ。
 これほど私的で冗長な前置きもないのだが、どうかお赦しいただきたい。

 今年8月に秋田県で初めての「こども議会」が開催される。
 2月議会で私から教育委員会に「キャリア教育」の一環として取り組んでもらうようお願いをしたものだが、おおむね開催の形が決まったようだ。
 私が、県議会の議場に入ったのは30歳を過ぎてからだった。
 全県から選ばれた小学生たちが、本会議場に集い、私たちオトナ議員でさえ緊張するあの議場で、県当局に対し、自分たちの疑問や想いをぶつける機会があるということは、これほどの「教育」と「機会」はないと私は思う。
 自分の人生を振り返ったときにも、「こども議会」は、どうしても実現したかったことであったし、ささやかながら、議員の立場から教育に関わることができたことにも嬉しく思っている。

 子どもの頃、自分には「政治」にふれる機会、「政治」を考える機会はなかったが、これからの秋田の子どもたちがそういう機会を与えられ、何かの「気づき」を得て、いつか、日本や秋田を背負って立つような政治家や起業家になってくれるなら、それだけで自分が今の仕事を選んだ価値はあるというもの。

 未来の政治家、未来の日本のために、今の政治家、今の私が頑張りたい。

 繰り返すが、根性だけはある。

 

 

Tokyo=Japan

2012年04月17日

 何が悪い。

 とは、さすがに石原都知事。
 東京都が尖閣諸島を購入する、というニュースについて、地方行政・地方政治の場に身を置く者として、触れずにはいられない。

 私自身、役所にいるときから、国の仕事とは何か、地方自治体の仕事とは何か、ということについて考えさせられてきたし、教えこまれてきた。
 国の仕事は、外交や防衛や通貨といった、まさにオールジャパンの問題についてしっかり対応すること、地方自治体の仕事は、福祉や産業振興や様々な住民サービスを提供すること。だから、国の過剰な規制(特に厚生労働省関係が多いのだが)は取り払ってもらいたい、地方にもっと財源をわたしてもらいたい、地方がやることにいちいち口を挟まないでもらいたい、という論理が成り立った。

 しかし、今回の尖閣諸島購入という発言は、これが単なるデモンストレーションであるとしても、そうした従来的な国と地方の関係の枠の中にはない。
 外交や防衛そのものであるからだ。

 都民の税金を使って、日本を守る、これすなわち、Tokyo=Japanである。

 大阪市長が新党を作って、政府与党を倒すと言うのも然り、今、地方の首長さんらの鼻息が大変荒い。

 大統領制である地方の首長さんと、議員内閣制である政府のコントラストは非常に鮮烈だが、日本には今、約1700人の大統領(首長)がいる。
 この1700人が、時々に、それぞれに、好き勝手なことをおっしゃる。敢えて辛辣な言い方をすれば、あれが悪い、これがダメだ、と自分の不利益になること、あるいは自分の利益になること、自分のプレゼンスを高めるため、集票につなげるため、巧みに立ち位置を変えながら、政治をやっておられる。
 全国知事会、全国市長会など、この1700人の政治家の合議体はあるのだが、これらは完全に機能不全に陥っている。
 私自身、役所にいたときに全国知事会の担当をしていたが、橋下市長曰くの「決められない政治」をまさに地で行く、単なるサロンであった。
 今はまさに、1700人の大統領たちが、「合議」や「合意」を横に置き、それぞれが親方となって、めいめい勝手に吠えている状態であり、政府としては、国内でもう1つの「外交」をしているような状態が続いている。

 では、明治時代のような中央集権体制がいいか、国から官選知事がやってくるような体制がいいか、と言われればもちろんそうではない。

 石原都知事が、いくら「尖閣を買う」と言っても、公金を使う限り、都議会の議決が必要になる。
 つまり、1700人の大統領に対峙するために、超然と地方議会が存在するのだ、いや、はずである。
 地方議員の数は全国で30000人を超える。

 昨今の、政府と地方の関係、あるいは、石原さんや橋下さんの言動というのは、単に鼻息の荒い首長が国政に手を突っ込んでグチャグチャかき回している、という表層ではなく、ノーと言えない、ノーと言わなくなった、首長のカーボンコピーのような地方議会の「消失」という文脈の中で読み解かなくてはいかない問題だと私は思っている。

 振り返って、我が秋田県議会。
 東京や大阪ほど存在感のある政治家は存在しないが、やはり同じ文脈の中にあると私は思う。

 ムダなあがきと笑われても、一蹴されても、秋田に「日本一の地方自治」を作るまで戦っていきたいし、戦える心身を保っていきたい。

 まだ、厳しくできるでしょう、自分に。もっと、自分に厳しく、沼谷くん。後悔先に立たず。「今」は今だけ。

 
 

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沼谷 純はこんな人!

昭和48年3月
秋田市生まれ。仁井田育ち。
平成7年4月
秋田県庁入庁、企画調整課配属。
平成22年12月
政治を志し、秋田県庁を脱藩!
(退職)
平成23年4月
秋田県議会議員に初当選。
現在3期目。
令和3年2月
秋田県議会議員を辞職し、秋田市長選挙に挑戦。
令和5年4月
政治家として再始動を決意。
現在
秋田市横森在住。

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